北海道出身のバンド、Galileo Galilei(ガリレオガリレイ)の完璧なメジャーデビューソング、「ハマナスの花」を解説したいと思います。
ガリレオガリレイのメンバーはいまはBBHFとして活動してて、最新作の『南下する青年』が大絶賛されてるんですけど、彼らはもう最初から凄かったんですよね。それがわかるデビュー曲だと思います。
完璧とはまた大きく出ましたが、何をもってそう言っているのか、音楽面、歌詞面と、それぞれ解説していきたいと思います。
1. 話題のデビュー
彼らのメジャーデビューソング「ハマナスの花」はいきなりauのLISMOのシーエムに起用されました。
デビューしたバンドがいきなりCMで大々的にフューチャーされる、それだけでも話題性は十分です。
が、さらに驚くべきことにその時メンバーはまだ全員10代だったんですよね。
そもそも彼らはティーンバンドのコンテスト、閃光ライオット2008年で、初代グランプリを獲得しているのです。
そう。彼らはその若さにもかかわらずかなり派手で、優遇されたメジャーデビューを飾ったのです。
2. バンドとしての確かさ
「そうはいってもバンドとして、大した事はないだろう。ただそこそこ楽器を弾ける、若いバンドってだけだろう」
そう思って彼らをナメていた人は多かったかもしれません。
本当に申し訳ないことですが、当時は僕もそのような、うがった見方をしていました。
しかし、それはとんでもない間違いでした。
実際の楽曲を聞いてみると、そこら辺のバンドよりもしっかりアレンジしているんですね。
ギター、ベース、ドラム、ボーカルがそれぞれバンドとしてやる意味がある音を出しているんです。
ただ隙間を埋めるだけの音じゃない。必然性のあるサウンドを奏でているのでした。
何よりも彼らには若さを生かしたバンドらしい躍動感があったのです。
イントロひとつとってもそれはわかります。
まずはギターの歪んだリフから始まります。
そこにドラムのハイハットからのフィルインが入って行き、そこからドラムがフィルインのパターンを披露し、そしてベースのスラップが入って、そして歌に突入していくのです。
俺達はバンドなんだ、という名刺代わりのイントロですよね。
それぞれのパートにキチンと見せ場があります。そしてそれは曲を通してその姿勢は変わらないんですね。
いわゆる「お客さん」てきなプレイヤーが一人もいない。
それぞれのパートが主体性をもって楽曲に取り組んでいるのが感じられます。
この曲からは特にそんなそれぞれのメンバーの「気合」が伝わってきます。
3. ハイクオリティーな歌詞
「よしバンドがしっかりしているのはわかった。まぁでも歌詞は大した事は歌ってないだろう。どうせたわいのない歌詞なんじゃないの」
と思った事方もいらっしゃるかもしれません。
ところがどっこいとんでもない、構成のしっかりしたハイクオリティーな歌詞なんです。
どこがどう凄いのか、内容を詳しく見ていきたいと思います。
導入部分
こんな歌いだしから始まります。
雨が降って 虹が出来て 綺麗ね はいオワリ
寂しくなって あなたがいて 独りじゃない はいオワリ
ここでは「ありきたりな創作物」や「感動表現」に関する否定的な態度が描かれます。
美しいものをただ美しいというだけ。寂しくても「誰かがいてくれたらそれは一人ではない」という表面的な励ましの言葉。
そういったものに対してばっさりと「はいオワリ」と切り捨てています。
事実こんな風に続いていきます。
言葉はいつも薄っぺらいよ 僕は勝手に決め付けた
卑屈な顔で自分を笑って 本当は泣きたかったのに
ここで少し様子が変わってきます。
批判の対象は自分にも向いてきているのです。
そういったものに対して「いつも薄っぺらい」とおもうことは「勝手」な「決め付け」であることを自覚しているんですね。
世の中を斜めに見る態度、「本当は泣きたかった」のに自分を笑って片付けてしまう卑屈な態度は、やっぱり違う、ということは自覚しつつも、他にどうするかもわからずに、そうせざるを得ないような状況。
そんな葛藤がここにはあります。その状態が次の一文でしめされます。
染まりたくないと 止まったままで
吐きだした声に 君は静かに頷いた
そう、ありきたりの「薄っぺらい」世間に「染まりたくない」と「吐き出し」てはいるものの、それが「止まったまま」の状態であること、つまり停滞してしまっていることは自覚しているので苦しんでるのです。
そしてここで「君」という他者が出てきます。
「君」は静かに「僕」の声に頷いてくれます。
肯定も否定もせずにただ受け止めてくれるのです。
サビに入ります。
世界は張り裂けて 僕はここにいる
受け入れることは 染まるのとは違うから
僕が僕で いられたら どれだけ いいだろうかなんて
嘆くだけの 止まった時間を 抜け出そう
自分とは合わない世間と自分の間に断絶があること(「世界は張り裂けて」)が最初のセンテンスで示されます。
が、重要なのは次です。
「受け入れることは 染まるのとは違うから」つまりそういった「世間」や「世界」になんにも考えずに受動的に染まってしまうのはやっぱり無理だし、おかしいけれど、「受け入れる」ということに活路を見出そうとしています。
「僕が僕で いられたら」と「嘆くだけの 止まった時間」、つまり、「染まりたくないと 止まったまま」の状態から「抜け出そう」、馴染めない世界をただ否定するだけはやめ、「受け入れて」みようという宣言がここで高らかになされています。
次のステップ
2番のAメロに入ります。
僕らを赤裸々に表現したような
うそ臭いリアルの映画や小説に
無力感と馬鹿らしさと 共感を感じるんだ
この部分は1番のAメロと似た構造をもっていますね。
自分達を代弁するような作品に、「全然違う、僕らのことをわかっていない」という歯がゆさから「無力感と馬鹿らしさ」を感じます。
でもその一方でそんな作品にも自分達の一面を捕らえている部分があることは認めていて、「共感」を感じてしまうんです。
この部分はかなり秀逸な表現でうなずいてしまう人もいるのではないでしょうか。
ポイントはやはり共感が最後に出てくるところです。
直接的な表現ではありますが、相反する感情が複雑にからんだ心情を見事にあらわしています。
バンドの演奏もちょっと他の部分と変わって言葉を強調するような作りになっています。
Bメロにいきます。
気付けば僕は一人 傍まで来てよ
君と見た場所 一つだけ種を植えよう
ここでは「染まらない」ことの苦しさ、孤独が歌われています。
それで先ほど出てきた唯一の理解者である「君」に助けをもとめているのです。
そんな「君」と「一つだけ種を植える」ということはどういうことでしょうか。
もうちょっと先まで見にいきましょう。2回目のサビです。
歩きだして 随分すぎて
少し疲れたら あの種に水をやろう
僕が僕でいられたら 君が君でいられたら
僕らに似た色をした小さなばら
ここでは染まらずに世界を「受け入れて」歩みを進めてきた「僕」が描かれています。
そんな状態に少し疲れたらあの種に水をやります。そしてその種はどうやら「小さなばら」として実ったようです。
その種に水をやるくだりと、ばらがでてくる間に「僕が僕でいられたら 君が君でいられたら」というセンテンスが挿入されます。
ここがポイントです。
つまり「種」や「ばら」は、僕が僕の核であると規定した何か、僕ららしさのようなもの、あるいは僕らが大事だと認めた価値、などのことではないでしょうか。
そういったものを心の奥底に持っておいて時々育てて行くのです。
それはやがて花を咲かせます。「僕らに似た色をした小さなばら」です。
曲のブリッジ部分に行きます。
ハマナスの花
僕らに絡み付く流行の世界に
強く根を張り 朝露に濡れて
伸び上がって 一つだけ咲いた
ここで初めてタイトルの「ハマナスの花」が出てきます。
ハマナスはバラ科の植物です。ということはあの「小さなばら」はハマナスのことだったんですね。
ハマナスの花、僕ららしさ、僕らが大切にしている価値観は、Aメロで出てくるような、流行りのありきたりな世界に容赦なく脅かされます(僕らに絡み付く流行の世界)。
しかし、そういったものに安易に流されていくこともなく、僕達は僕ららしさを育てていくのです(強く根を張り 朝露に濡れて 伸び上がって 一つだけ咲いた)。
その結果が最後のサビになります。
世界は広がって 僕らここにいる
幾千の色が 少しずつ混ざってく
僕が僕でいられるよ 君は君でいられるよ
あの花の色は決して忘れないから色あせないよ
世間をただ否定するのではなく、染まらず、受け入れていくことで「世界は広がって」いきます。
自分本位なだけの状況からも脱しています。
ブリッジ部分からは一人称も「僕」から「僕ら」になっています。
そうして他人からの影響で「幾千の色が少しずつ混ざっていく」のです。そういう理想的な在り方がここで描かれています。
そして僕ららしさを「種」から「花」にそだてあげて、それを心に留めているからこそ、「僕が僕でいられる」し、「君は君でいられる」のです。
これは彼らのバンドとしての決意表明でもあります。
これからも自分らしさを維持しつつ(あの花の色は決して忘れない)も、世界を「受け入れ」、対峙し、表現することを続けていく、という決意を歌っているのです。
歌詞のまとめ
どうだったでしょうか。
- 歌の中で主人公が成長していく見事な構成
- 青春の葛藤を描き出すこと
- バンドとしての決意表明
この、三つを見事に同時にやってのける詩作能力の高さ。十代でそんな詩を作ってしまうなんて、作詞作曲をしている尾崎雄貴のとんでもない能力の高さが伺いしれます。
それではなぜその「花」はハマナスの花でなくてはならないのでしょうか。
北海道出身者としての決意表明
彼らは北海道稚内出身のバンドです。
ギターの岩井郁人(いわい ふみと)のみ恵庭市出身ですが、同じ北海道です。
ハマナスはバラ科の花でして北海道に多い花なんです。で、実は道の花とも認定されているんです。
つまり、ハマナスの花には、彼らの北海道出身者としてのアイデンティティーがこめられているんですね。
事実彼らは北海道に拠点を置きそこから音楽を届けていくという意識が非常に高いバンドでもあったんです。
札幌市にある一軒家を改造し、わんわんスタジオを設立し、そこから音楽を発信してきました。
そういった北海道出身者としてのアイデンティティーがデビュー当時からこのように表現されてるんですね。
まとめ
いかがだったでしょうか。
もう唸るしかない楽曲ですね。
もしかしたら、この青臭さが苦手な人はいるかもしれませんが、響く人にはものすごく深いところまで響くとおもいます。
単純に消費されて終わる楽曲ではありません。
彼らの若い葛藤がストレートに、しかし同時に複雑に表現されています。
この曲からは、リスナーに、「無力感や馬鹿らしさ」や「うそ臭いリアル」を感じさせない様な作品を届けようとする、真摯な想いが伝わってきます。
葛藤している若い人たちにとって、この曲に出てくる「君」のような存在の曲、その結果生まれたこの曲は青春の最高のアンセムといっても過言ではないと思います。
歌詞に比重をおきすぎてしまいましたが、もちろんメロディーも秀逸で、緊張感のあるAメロ、切実さをたたえたBメロ、広がりと覚悟を感じさせるサビ、突き抜けるような開放感のあるブリッジ部分など、歌詞の内容に沿った適切なメロディーラインは当然すばらしいと思います。
当時の彼らの凄いところは、若いのにしっかりしている歌詞やバンドサウンド、それはもう本当にそうなんですけど、変に老獪なところがあったり、無駄に大人ぶった表現ではなく、その若さを十分に生かした歌詞であったりサウンドを奏でているところだと思います。
自分たちのそのままを余すことなく伝えられる力ですね。
それが好感だったり、共感を寄せてしまう、理由だとおもいますし、当時のガリレオガリレイというバンドの希少性だとおもいます。
この時点で奇跡的なバランスを保っていたバンドであったがゆえに、その強烈な、ハマナスの花、この曲のイメージ、に彼らはその後苦しめられることになります。
結果彼らは2016年にバンドを「終了」させます。
しかし、またほぼ同じメンバーでBird Bear Hare and Fish(バードベアーヘアーアンドフィッシュ)を結成します(現在BBHFに改名)。
Galileo Galileiについてしまったイメージを一旦リセットしたかったんでしょうね。
しかし「ハマナスの花」の後の彼らは、決して凡庸なバンドになることはなく、さらにこの曲を超えてくるような進化をみせ、それ以上のクオリティーの楽曲を次々と発表するような目覚ましい活躍をしていきます。
また機会がありましたら、ハマナスの花以降の彼らのアルバムや曲について取り上げてみたいと思います。