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ピンク・フロイドの歴史的名盤『狂気』(The Dark Side of the Moon)

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今回は1973年に発表されたピンク・フロイドの歴史的名盤『狂気』(The Dark Side of the Moonをレビューしていきたいと思います。

今までに全世界累計セールス4.500万枚以上を記録、10年以上もビルボードトップ200に居続けたなど、規格外の数字を持つモンスターアルバムで、売れただけでなく、評論家の評価もかなり高いです。音楽的な内容だけでなく、イギリスのデザインチーム、ヒプノシスが手掛けた印象的なアートワークも様々なパロディや引用に使われ、象徴的なものになっています。

ということで並々ならぬ文化的なインパクトを持った本作ですが、この作品、実は転換期的な作品で、これまでのピンク・フロイドのアルバムよりもかっちりとした作りになっていて、その点が大成功の秘訣だと思います。その点を掘り下げつつレビューしていきます。

『狂気』は難解? 理解しにくいアルバム?

本作は知名度も高く、今でも新しいリスナーを獲得しているアルバムなんですけど、同時に、ネット上には「難解でわかりにくい」や「よさがわからない」という意見が散見されます。

良さが分からない名盤というPeter(@zippu21)氏のTwitterの企画でも上位に食い込んだ本作。

なぜ、こんな風に思われてしまいがちなのか、中身にも関わってくる問題なので先に片づけておきたいと思います。実は筆者も本作が心の底から良いといえるのに時間がかかりました。

どうしてピンとこなかったのか今では結構不思議なんですけど「いうほど良いアルバムか?」というのが最初聴いたときの正直な感想でした。

ということで、本作が「難解」「よくわからない」と思われがちなポイントを指摘して、その対策をまずは語っていきます。そんなこと指摘されなくても、「もう十分良さはわかっとるわい」という人はここから本編にどうぞ。

プログレ文脈、クラシックロック

ピンク・フロイドはジャンルで言うとプログレッシブ・ロックもしくはクラシック・ロックに分類されることが多いです。プログレッシブ・ロックというのはジャズやクラシックに影響を受けた、高度な演奏技術を持つプレイヤーが非常に複雑な展開をもった壮大なスケールとコンセプトを持つ楽曲を展開していく、というのが一般的なイメージです。もうちょっと下世話にいうと派手な展開やソロやインタープレイの応酬などが見受けられたり期待されたりするジャンルです。

ところがピンク・フロイドというのはもともとサイケデリック・ロックバンドだったり、フォーキーでゆるい音楽性をもっていたこともあって、本作もそれらのプログレの名盤たちと比べると、複雑な展開や楽器演奏の派手さはないんですよね。本作にその傾向は顕著ですが、むしろ無駄のない洗練された比較的シンプルなアレンジで、テンションが高くスピード感のある演奏というよりはゆったりしていて徐々に盛り上がっていくのが特徴です。本作もインプロビゼーションで派手に音を重ねていくのではなく、一音一音に意味が込められているようなある種、真逆の引き算的アレンジなんですよね。

ということで、スリリングで派手で速いパッセージが飛び交い、展開が目まぐるしく変わるプログレ文脈で見ると物足りなさを感じてしまうのかなと思います。

筆者もプログレ大好きで、イエスキング・クリムゾンのようなハードな展開を期待していたので、当初は物足りなさを感じました。確かに壮大なスケールやコンセプト重視のつくり、一曲一曲の長さはプログレの王道というにふさわしい作りにはなっていますが、本作の本質の音楽性は、むしろゆったり目のブルージーなロックだったり、アンビエントドリームポップ的だったりします。

またクラシック・ロック文脈でみても不利な点があります。クラシック・ロックはギタードリヴンでわかりやすいリフやこれまた派手でアップテンポな曲が連想されます。

ところが本作にはわかりやすいリフも特にありません※①。デヴィッド・ギルモアのプレイはツボを押さえた最高のギタープレイで、特にギターソロとか最高なんですけど、ハードロック的な派手さを期待すると肩透かしを食らいます。曲調も心臓の鼓動に合わせたようなゆったりとしたテンポのものがメインです。また後に詳しく触れますが邦題が『狂気』なのも激しいロックを連想させ誤解を生みやすいです。

ということでプログレの様な派手でテクニカルな展開やハードロック的なわかりやすくてカッコいいギターミュージックを求めると肩透かしを食らいますが、ブルージーなロックだったり、アンビエントやドリームポップ的なものだと思って聴き始めるとスッと入れると思います。

※①「マネー」とか最高のリフじゃんとか反論はあると思いますが、変拍子だったりでスッと入ってくる系の分かりやすいかっこよさはない。

歌詞の理解が内容の受け止め方に大きく作用するから。邦題問題。

本作の評価軸の一つに、歌詞の文学性の高さがあります。文学性の高さというのを具体的に説明しますね。実は本作の歌詞は、バンドメンバーが周りにいる複数の人に行った人生にまつわるトピックのインタビューをベースにしているんです。それらのインタビューの内容をメンバーのロジャー・ウォーターズが歌詞としてまとめ上げ、老いや後悔、時間、金、戦争、狂気などのトピックごとに、社会の中で翻弄されながら生きる我々を大きな視点でとらえて、歌詞にまとめ上げてしまった優れた内容になっているんです。と、それが深い感動を生むポイントでもあるんですけど、前述したとおり、老いや後悔、時間、金などをテーマにしており、歌詞の内容理解と共感にはある程度の人生経験が必要なんですよね。自分も最初に本作を聴いたのは中学生だったので、翻訳を読んでも書いてある内容に全然ピンと来ていませんでした。また英語なので我々日本人には内容がダイレクトにスッとはいってこないのもあります。それなりに人生経験を重ねてきた今は、これらの歌詞は刺さりすぎて若干辛いところもあるぐらいです……。またThe Dark Side of the Moon(月の暗い側)という原題の邦訳、『狂気』も内容理解の妨げとなっている気がします。サウンドやジャケットと親和性の高い名訳だという評価が高いと思いますが、アルバム全体の要約という意味ではタイトルとしては相応しくないというか誤解を招く邦題だと思います。

おそらく一曲目のテープコラージュの最後の叫び声や、SEとして挿入される話し声、独白、月と狂気の文化的な相関関係、みたいなところからの連想された邦題だとは思いますが、本当に「狂気」そのものをテーマにした曲と言えるのは9曲目の「Brain Damage」だけになります。前述した通り、人間の人生や文明についての歌詞なので、全体が「狂気」をコンセプトとしているんだというぼんやりとした理解はかえって内容理解を妨げるものだと思います。

という事で本作、余裕がある方は、じっくりと歌詞を見て楽しんでいただきたいです。勿論邦訳でもいいと思いますが、気持ちよく韻を踏んでいるので、その点を音と一緒に味わう意味でも、欲を言えば対訳ではなく、もとの英語詞を眺めながら聴いて欲しいですね。

歌が始まるまでが、長い。

ギターソロを飛ばされるという話が一時期話題になりましたが、サブスク時代の今、ギターソロだけでなく、そもそも冗長なイントロなどはスキップされる可能性が高いので忌避される傾向にあります。そのこともあって今主流な楽曲はイントロ部分でなんらかのつかみがある曲が多いですし、アルバムの一曲目にベストな曲を持ってくることも多いです。

ところがこのアルバムは1曲目は音のコラージュ的な作品で、しかも最初フェードインから入るので音量や再生環境によっては無音部分がずっと続いていることになります。2曲目はゆったりとしたナンバーですし、3曲目は実験的なインスト。名曲と名高い4曲目はいきなり時計のSEで始まったと思えば大仰なイントロ部分が長くて(慣れると最高なんだけど)、歌が始まるのは2分30秒をやっと過ぎたあたりです。と、最近のアルバムに慣れているリスナーにとって優しくない構造になっており、今の大方の人のリスニングスタイルにはフィットしにくいのかなと思います。

しかし、本作は浮遊感のあるドリーミーなサウンドスケープのものが多いので、アンビエント要素が遍く全てのジャンルに行き渡っている様な現在において、その視点で聴くと実は親和性が高いアルバムなのではと思います。ということでゆったりとした椅子などに座りながら歌詞を眺めつつ聴いてみると案外しっくりと来るかもしれません。勿論大きな音で。

以上、何回か聴いてみたけれどもピンと来てない方へのポイントを説明したので、早速本編について一曲一曲解説していきます

1. スピーク・トゥ・ミー (Speak to Me)

ドラムのニック・メイスンによるテープ・コラージュのオープニングナンバー。心臓の鼓動の音に本作の内容を予告するような音がちりばめられている、いわゆるOverture的な役割の曲。

本作以降のかっちりしたプロダクションをメインで聴いてるリスナーにはあまりそんな印象はないかもしれないが、ピンク・フロイドはかなり実験的なことを好むバンドで、1969年に発表した『ウマグマ』(Ummagumma)ではメンバー4人がそれぞれ自由に実験的な作品を作っている。

SE(Sound Effect)、いわゆる効果音も好きで、実際本作が成功しすぎて次作の制作に行き詰った際に『Household Objects』という家庭用品を楽器代わりに演奏したアルバムを発表しようとした程。

そんな効果音や実験精神がそれ自体の面白さに終始するのではなく(本作より前は正直そんな傾向があった)、あくまでも楽曲を引き立てるために効果的に使われているのが本作のポイントで、これまでのピンク・フロイドによくも悪くも付随していた「ゆるさ」、弛緩した部分が、本作では引き締められ、もしくは適切に調整されてる。

たまにピンク・フロイドが『ザ・ウォール』あたりの印象から、ロジャー・ウォーターズのワンマンバンドと誤解している人がいるが、それは誤りで、ロジャー・ウォーターズが実権を握りすぎてバランスが崩れてしまったバンドだと思う。先の『ウマグマ』の例しかり、この曲がニック・メイソン主体の曲であったりすることからもフロイドが本来ウォーターズのワンマンバンドではなかったことは明白だと思う。

2. 生命の息吹き (Breathe)

ギターのデヴィッド・ギルモアとキーボードのリチャード・ライトの共作で、歌詞はロジャー・ウォーターズ、リードボーカルはギルモア。

浮遊感のあるサウンドプロダクション、ゆったりとしたスローテンポの楽曲で、今のリスナーにとってはアンビエント・ポップ/ドリーム・ポップととらえたほうがすんなり入ってくるかもしない。

生まれてきた赤子を祝福し、これからの希望を語りかける一番。それに対して日々の労働やしなければならないことをこなすことで精一杯の現代生活を寓話的に描いた二番。わざわざ一番と同じフレーズを引用して、皮肉っぽく終わらせるところなんかも、イギリスらしい辛辣なユーモアが効いている。

タイトルのBreatheは「息をする」という意味で、歌詞の最初で生まれた赤ん坊に最初の呼吸を促している。この曲で人生のゆりかごから墓場までを序盤で描き、このアルバムのコンセプトが人間の人生にまつわるあらゆることであることを提示している。 

3. 走り回って (On the Run)

シンセサイザーとSEの組み合わせからなる、実験的な小品で、ギルモアとウォーターズの共作。

心臓の鼓動を模したビートがバスドラムで刻み続けられるが、上物にはスピード感があり、なおかつ左右のチャンネルにパンを繰り返しているので、邦題の通り、ぐるぐると走り回っている感じが確かに出ている。前の曲にそのままつながってることもあり、人生に翻弄され、疲弊していく我々の状況を表した様に解釈できる。

4. タイム〜ブリーズ(リプライズ)(Time〜Breathe (Reprise))

その名の通り時間をテーマにしたピンク・フロイドの代表曲。もしもピンク・フロイドで一曲だけ選べと言われたら迷わずこれを選ぶ。

イントロ部分の時計のSEと歌までの2分間が冗長に感じるかもしれないが、歌詞の内容を理解し、曲自体が好きになると勿体ぶったようなこの部分も最高に思えてくる。心臓の鼓動を模したバスドラムや、時計のコチコチと鳴る音を模したベースを基本的なリズムにしているのも計算の内だということが分かる。

本編はスロウファンクともいえるようなゆったりとしつつも力強さのあるロックナンバー。一番の歌詞は若い頃の怠惰な生活や無為に過ごす時間が描写され、気づくと何かを始めるにはもう遅かったという状況になっていると歌われ、そこで激しい後悔を思わせるようなエモーショナルなギターソロが入る。

デヴィッド・ギルモアがギタリストとして優れているポイントは多々あるが、このギターソロの構成力と表現力にはいつ聴いても打ちのめされる。個人的に生涯ベストギターソロの一つ。

二番ではひたすら老いていくだけの人生に対する後悔の念が語られ、何もここまで悲観的にならなくてもと思わない事もないが、イギリスは階級社会でもあるし、今みたいに個人がネットで何かをやれる環境ではなかったから、一度定まってしまったものは変わらないという諦念が当時今より強固だったのかもしれない。

この曲は本作で唯一四人全員がクレジットされている曲。これ以降全員がクレジットされてる曲はないのがその後のフロイドの状態を物語っている。全員で作ったこの曲が相当凄かっただけに、この後も仲良くやってたらもっと凄い作品を残せたんじゃないかとおもうとかなり残念。

終わりのほうでは2曲目の「Breathe」がRepriseとして再登場するが、非常に自然に切り替わるため、最初は気付かなかった。

過ぎ去った時間のことは諦め、今、目の前の人生を受け入れると決めた後の疲れ切った人の姿が描かれているような気がする。Breatheには一息つく的な休むという意味もあるので、タイトルは同じだが、そういう意味あいになっていると思う。歌詞の後半のフレーズは、なんとなくミレーの「晩鐘」を想起させる。

5. 虚空のスキャット (The Great Gig in the Sky)

邦題が端的に表しているようにスキャットがメインのインスト曲で、リチャード・ライト単独作曲のナンバー。

これはクレア・トリーというシンガーがアドリブで歌ったスキャット。ベースとなる作曲はリチャード・ライトだが、メロディーというか歌の旋律自体はクレアによるもので現在では彼女のクレジットも入っている。

バンドが事前に行ったアンケートの結果で出てきたコメント、死を恐れないという内容の独白が最初に挿入される。が、そのあとのエモーショナルなスキャットがそのコメントを受けてのものだとすれば、そこには独白とは正反対の「死」に対する恐れ、根源的な恐怖や畏怖、諦念といった様々な感情が読み取れるような気がする。ということで邦題の「虚空のスキャット」は完全な意訳ではあるものの、タイトルとしては的を射ていると思う。レコードではここでA面が終わる。

6. マネー (Money)

レコードではこの曲からB面。タイトル通り、お金をテーマにした皮肉たっぷりの歌詞とバウンスしたリズムと変拍子でおくる、軽快だけどハードなブルース・ロックナンバーで「Time」とならんで本作のクライマックスの一つ。更に皮肉なことにこのアルバムの大成功によってバンドはさらにたっぷりのお金を手にすることになり、その戸惑いは次作のアルバムでもテーマの一つになる。

ビートルズ「All You Need Is Love」とならんで世界で最も有名な変拍子ソングのとつで、7/4拍子(4/4+3/4ともいえる、ん・たん・ん・たん(4/4)ん・たん・たん(3/4)の繰り返し)。イントロからレジスターの音のSEがリズミカルに打ち鳴らされるのも効果的。サンプラーとかもない時代なので、レジの音でリズムを作り出すのも手間がかかっている。

中盤のサックスのソロから徐々に盛り上がっていき、怒涛のギターソロに突入していくあたりからの展開は圧巻。ピンク・フロイドが実は結構ハードなサウンドも得意としていることが分かる一曲でもある。ここで他のプログレバンドならそれぞれの楽器の見せ場が出てきたりしてかなり長い曲になりそうだが、彼らはあくまでもデヴィッド・ギルモアのギターソロに主軸を置き、曲としてのダイナミックな流れやストーリー性を大事にしている。

7. アス・アンド・ゼム (Us and Them)

二曲目同様、現在からの視点だとドリームポップ、アンビエントポップ的な浮遊感が心地よい曲で、ジャズっぽい要素もあるのでアンビエントジャズとも言える。リチャード・ライト作曲。作詞は勿論ロジャー・ウォーターズで、リードボーカルはギルモア。

見てきた様に本作はリチャード・ライトがかなり作曲で貢献している。ピンク・フロイドといえば、このあとイニシアチブを取っていく、ロジャー・ウォーターズやギターでボーカルを取ることも多いデヴィッド・ギルモア、そして不在期間の方が長い割に脱退後の作品にも影を落としてきたこともあって存在感のあるシド・バレットが注目されがちだが、残りの二人にもスポットが当たってほしいし、特にリチャード・ライトの本作への貢献はもっと語られてもいい。珍しく彼のクレジットが目立つ本作が彼らのキャリア上一番の名盤になっていることはもっと注目されてもいいし、その事を大いに語るのが本稿の目的の一つでもある。

ゆったりとした曲調だが、テーマは戦争で、そこから発展して持つ者と持たざる者、犠牲者はいつも持たざる者であるという話になる。所謂反戦歌としてとらえることもできるが60年代や70年代初頭のアメリカのそれとは空気感も熱量も異なっていて、怒りや抗議というよりは、レイドバックしたサウンドと突き放した視点(神のように起こっていることをただ見ている視点)が醸し出す、諦念と揶揄が漂っている。ただ、本作以降ロジャー・ウォーターズのメッセージはより具体性攻撃性も増していく。

8. 望みの色を (Any Colour You Like)

無理やりジャンル分けするならサイケデリックロックだろうか、ロジャー・ウォーターズ以外の三人の共作によるファンキーなインスト・ナンバー。タイトルの「Any Colour You Like」は邦題通り「あなたの好きな色なんでも」的なニュアンス。本作の他の曲のテーマとこの曲の雰囲気と合わせて解釈するなら「望み通りの人生を思い描くことはできる(Any Colour You Like)が、それは夢であり決して手に入らない」ということだろうか。

ライトのキーボードが主体の前半、ギルモアのギターが主体の後半に大まかに分けられている。その間にメイソンのドラムが彩を加えているので、この三者のクレジットになっているのも分かる気がする。その余白にウォーターズのベ―スが入っている印象。

9. 狂人は心に (Brain Damage)

ウォーターズ単独作曲の曲で、ボーカルも彼が担当。ピンク・フロイドは中心メンバーでメインボーカルだったシド・バレットがドラッグとメンタルヘルスの問題で早々に脱退してしまったこともあり、メインのボーカルが定まってなかったりして、その点も今のバンドと比較して面白い点。この頃はギルモアがなんとなくメインボーカルの時期で、『アニマルズ』以降はロジャー・ウォーターズがメインのボーカリストになっていって、ウォーターズ脱退後は再びデイヴィッド・ギルモアがメインになる。デヴィッド・ギルモアは結構歌が上手いし魅力的なボーカリストでもあると思うが、もともとボーカル志望の人たちが歌っているわけでも、ものすごく歌が上手い人たちの集まりでもないので、本作もハモリや女性コーラスの追加で歌に厚みをだしている曲が多い。この曲のロジャーのボーカルもぶ厚いコーラスのバックで補われている。この構造は次の終曲でも同じ。

テーマは邦題タイトルのとおり、人間の狂気であり、原題のThe Dark Side of the Moonという一節が出てくる。月の自転周期と公転周期が同期しているため、月の裏側は地球からは見えない、普通は地上からみることの出来ない場所なので、月の裏側で会おう、という一節は正気ではない世界へのいざないのメタファーになっている。

10. 狂気日食 (Eclipse)

本作の締めくくりとしてこれ以外のものは考えられない終曲。ゆったりとした6/8拍子の曲なんだけど、ザ・バンドみたいな躍動感がある。分厚いコーラスやそれによってもたらされる神的な高揚感は、ゴスペルやR&Bの影響を感じさせる。

歌詞は様々な現象を並び立て、全てのものをひっくるめて語ろうとしていて、それは圧倒的な人生への肯定、生命賛歌にも聞こえる。

All that you touch
触れるものすべて、
and all that you see
見るものすべて
All that you taste,
味わうもの全て
all you feel
感じる全て
And all that you love
愛するものすべて
and all that you hate
憎むもの全て

Eclipse(訳JMX)

実際に、これらの人生にまつわる事物の全ては太陽の元で調和している(And everything under the sun is in tune)と歌われ圧倒的な肯定感につつまれる。

だがそれではおわらず、最後の一行で、「しかしその(すべてに調和をもたらす)太陽は月によって浸食されている」(but the sun is eclipsed by the moon)と最後の最後にひっくり返らされる。

それは2曲目の「Breathe」で祝福されて生まれてきた前途ある赤ちゃんが、成長して惨たらしい現実によって老いさらばえていく構造にも似ている。

なんかこの最後に水を差していく意地悪なセンスは実に英国的ブラックユーモアというか、アメリカのバンドだったら最後「太陽バンザーイ」で終わっていたと思う(笑)。沢山の事象を羅列して圧倒するのはアメリカを代表する詩人のホイットマン的でもあるし。

そして最後にそんな終わりに追い打ちをかけるように我々を嘲笑うかのように笑い声がこだまして、心臓の音でアルバムは最初に戻って終わる。

まとめ 狂気はなぜこんなにも素晴らしい仕上がりになったのか。

色々ごちゃごちゃと書きましたが、結局素晴らしいの一言につきますね……。アルバムとしての流れの完璧さに毎回、圧倒され何度聴いても飽きないし、ついつい終わりまで聴いてしまう、録音芸術と呼ぶにふさわしい仕上がりです。

勿論これはメンバーだけの力でもなくて、エンジニアのアラン・パーソンズだったり、ロキシー・ミュージックやのちにピストルズとの仕事でも知られるクリス・トーマスがmix supervisorとして入っていたり、技術チームの力も大きく、他のフロイドの作品と比べて音の良さも頭一つ抜けてると思います。本作同様大ヒットした『ザ・ウォール』を聴くと音像の豊かさの点で全然物足りないなと感じてしまいます。

ポイントをまとめると、見てきたようにそれぞれのメンバーがそれぞれの特性を生かした楽曲作り、アレンジをして、ロジャー・ウォーターズのコンセプトありきの歌詞という一本の芯が入ったことで生まれた傑作なのだと思います。

これ以降ロジャーのワンマンぶりが目立つようになり、アレンジも精彩を欠いていくようにおもえるので、ピンク・フロイドがバンドとしてあるべき最高の姿で機能していたのは本作と、次作の『炎』まで、というのが僕の持論です。ということで好き嫌いはともかく、本作はビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』と並び、優れたポピュラーミュージックの金字塔として他の数多くの名盤とは一歩上の高みに到達している一枚であることはまず間違いないと思います。

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