音楽連載小説『リバーポートソング』第一話 W3は柳のバンドだった。少なくとも僕にとってはずっとそうだった。

 W3(ワンダースリー)は手塚治虫の漫画から取った。スリーピースだったし、柳の本棚にあったから。けれど、人から聞かれたときはWinslow Homer、Winsor Mccay、William Shakespeare、三人の頭文字からとったと答えるようにしていた。そのほうが格好がいいと思っていたから。シェイクスピア以外はなんの人か知らない。ググってくれ。画家じゃなかったかな。知らない方が幸せな気がしてなんとなく調べられないでいる。※①その二人の名前も柳から出てきた出鱈目だった。
 そう、W3は柳のバンドだった。少なくとも僕にとってはずっとそうだった。
 StraySheepsは、例のバンドの名付けの王道パターンだ。辞書を適当に開いて、そこにあったのをつけた。迷える子羊。ただこれも花田が「漱石の三四郎のラスト。だろ?」といわれて、それから高岸の中ではそうなった。そういうことだ。最初は『はっぴいえんど』みたいに平仮名で『すとれいしーぷす』だった。
 平仮名表記をやめたのは賢明な判断だと思う。
 絶対安全毛布は最初はメソポタミア文明ズだったが、驚いたことに同じ名前のバンドがいたから改名された。錦はそれでも、「MR.BIGだってNirvanaだって二バンドあるし」※②、とかいって気にしていなかった。けどいつのまにかSafety blanketsになって、気づいたら絶対安全毛布になっていた。これは「ピーナッツ」にでてくるライナスと高野文子の掛け合わせだ。
 いま見ると全部ぱっとしないバンド名にみえる。けどバンド名なんてそんなものだ。実績がその名前を響かせる。ビートルズがもし凡庸な曲しかつくらないただの田舎バンドだったら? ローリング・ストーンズが会社の忘年会用に無理矢理結成された五十代のおっさんのバンドの名前だったら?※③つまりそういうことだし、今でもW3と絶対安全毛布という名前は気に入っている。メソポタミア文明ズも。 
 とにかく僕たちは文学青年の集まりでも、画家の卵の集まりでもない、バンドだった。
 柳が住んでいたボロい木造アパートは、今はもうない。もっと洗練された新しいアパートが建っている。そのアパートだって建ってからもう十年以上も過ぎている。
 新規取引先からの帰りでたまたま近くを通りがかった時だった。急に見慣れた通りに差し掛かった。急いで右折して僕たちが住んでいたあの町に十年ぶりに訪れた。町の風景は驚くほど変わっていなかった。が、一番大事だった風景はもう当時から姿を消していた。いまではその残骸すらない。そこはもうあの時から僕たちの町ではなくなっていた。それでもあの墓地をまがったところにある、あの柳のアパートあった場所を見るだけで、当時の思い出がはっきりとよみがえってきた。
 僕はあの時おこったことが理解出来なかった。今でもそうだ。
 営業車に戻るとしばらく何もする気が起きず、ハンドルにもたれかかってフロントガラス越しの景色を見ていた。やめたはずのタバコがまた吸いたくなった。十分ほど経ってやっと車を走らせ、会社への帰路についたが、心はあの時のあの町にあった。

 柳と出会ったのは大学一年の冬のある日。珍しく東京は猛吹雪、上京して一年目だったし、自分は雪国出身だから、なぜみんなが吹雪ごときで馬鹿みたいに騒いでいるのかが理解できなかった。あれから十年以上も東京に住んでいるが、このときほどの吹雪には遭遇したことがない。いまから思うと異常寒波だった。※④
 この日に絶対にギターを買うと前々から決めていたから、出掛けることに躊躇ちゅうちょはなく、JRにはかなりの遅延や運休が出ているようだったが、地下鉄を乗り継いでなんとかお茶の水までいった。が、肝心の楽器屋が大雪でしまっていたから、何の戦果もなく、とぼとぼと雪の中を最寄り駅から家に向かっていた。当時はiPodもかなり高価で、普及率もまだまだで、CDプレイヤーを持ち歩いていた。外出の時は数枚のCDとプレイヤーが必需品で、CDのチョイスを間違えると帰るまで一日中ブルーにこんがらがることになった。
 アルバムのジャケットには歌い手の顔のアップで、まわりには雪が降っている。その刷り込みがあったのかもしれない。その時聴いていたアルバムはマーヴィン・ゲイの『ワッツ・ゴーイン・オン』(What’s goin on)で聴いていたのは「マーシー・マーシー・ミー」(Mercy Mercy Me)だった。『ワッツ・ゴーイン・オン』 には『愛のゆくえ』という邦題がつけられていて、いまは使われてない。僕はその邦題が好きだ。1971年に発売されたその『愛のゆくえ』は画期的なアルバムだった。ソウルやブラックミュージックのヒット曲を主に扱っていたモータウン・レコード(Motown Records)からのリリースで、それまでこのレコード会社ではアルバムはヒット曲の寄せ集めにすぎなかったし、歌い手に決定権はなかったが、マーヴィン・ゲイはそのときから自分がイニシアチブをとってアルバムにテーマをきめ、曲をつくり、この、当時の社会問題を大きく取り上げたコンセプトアルバムを作り上げてしまった。もちろんそれ以前にもビーチボーイズの『ペット・サウンズ』(Pet Sounds)があってビートルズの『Sgt.Peppers』があって、すでにコンセプトアルバムはあった。しかし彼はモータウンレコードで初めてそれをやり、それが同時代や後進のアーティストへの道を切り開いていった。当時の社会問題をとりあげたと言ったが、歌われている内容は(残念ながら)現在でも十分通用するもので、社会問題を取り上げたといっても肩肘をはったもの、直接的な強い抗議の形ではなく、問いかけの形でおこなわれている。タイトル曲の「What’s goin on」もそうだ。
「いったい何がおこってるんだ?」
 背景には公民権運動やベトナム戦争があった。
 そのとき僕が聴いていた「マーシー・マーシー・ミー」は環境問題について歌われた歌だった。でもそんなことは当時の僕はわかっていなかった。歌詞をちゃんと読むようになったのは柳に出会ってから、わかっていたのはマーヴィン・ゲイが実の父親に射殺されたというスキャンダラスな事実、そして何をいっているかはわからないが、とにかく何かしらの思いを伝えたいという熱気がこのアルバムにはつまっているということだった。※⑤
 最寄の地下鉄の駅を出ると、朝、家を出たときよりもかなり吹雪いていて、視界が悪く、数メートル先もぼやけてみえた。しばらくあるくうちに、まえに豆粒のような人影があって、それがだんだんと大きくなっていくのがみえた。が、影が高すぎる。一瞬ぎょっとしたが、すぐに背の高い同い年ぐらいの青年がギターを担いでるだけとわかった。ギターを持っている時点で興味と妙な敵対心が生まれたが、もちろん話しかけるつもりはなかった。
「ごめん。ちょっと道を聞きたいんだけど」
  話しかけてきたのは柳だった。
 どうやら引っ越してきたばかりで不馴れなところにこの大雪で、道に迷ってしまったらしかった※⑥。確かに柳の下宿はいりくんだ路地にあり、この大雪で視界がいつもと違うならなら迷っても仕方がない。最初はぎこちなく話していたが、同い年でお互い大学生で、しかも同じ大学とわかると、一気に打ち解けた。
 柳の下宿はいりくんだ路地の突き当たりにあり、その路地の入り口にちょっとした墓地があって、そこは僕も知っていたから難なく案内できたのだった。柳の下宿は木造のぼろアパートで、当時ですらほとんど化石のような存在だった。本当は墓地の時点で別れてもいいはずだったけれど、話の途中だったからついここまで来てしまい、それじゃ帰るよと、いいかけたとき「よってく? 熱いコーヒーでもいれるよ」と誘ってくれたのだった。
 それが友情の始まりだった。

 柳の部屋は二階の一番奥の角部屋で、下には誰もすんでいなかった。隣は朝早く出て行って、夜遅くに帰ってくる、いるのかいないのかわからないぐらい静かに暮らしている社会人の男性だった。ミュージシャンにとってまぁ理想的な環境だ。深夜に騒ぎ過ぎないように気を付けるだけでよい。
 柳の部屋は物に囲まれていた。消して汚いわけでも散らかっていたわけでもなかったが、物はおおかった。まず玄関を入ると左手に靴棚があり、その上にCDと本が積み重なっていた。あとでわかったことだがその靴棚の中身はほとんど文庫本だった。靴は二三足で、ほとんどコンバースだった気がする。そう柳は音楽家であるだけでなく、熱心な読書家でもあった。そしてそれは彼の創作の秘密のひとつだったと今にして思う。
「寒いな、暖房をつけよう」積み重なったCDの山と山の間からリモコンを取り出すと柳はエアコンのスイッチをいれ、そのままかがんで、こたつの電源を入れた。エアコンは変な空気を大袈裟な音を立てて吐き出したあと、やっと動き出したようだった。東京の冬がこんなにも寒いとは思ってもみなかった。故郷よりも南だからもっと暖かいとおもっていたのだ。それになにより東京の建物は寒さに強いようにはできていなかった。少なくても僕と柳のアパートはそうだった。僕はこたつに滑り込むと、寒さを紛らわそうと気を散らすため、柳の部屋のなかを観察し始めた。柳の家は当然ワンルームで、先ほど書いたように玄関から入って左手に靴棚があり、そのとなりは風呂と便所、いわゆるユニットバスがある。対して右手には簡易的なキッチンと流しがあって、部屋とその廊下の仕切りには申し訳程度にカーテンが引いてあった。
 入り口から見て部屋の右手側には本棚があって、CDと本でぎっしりだった。その奥にギターラックがあって、テレキャスター、ストラトとレスポール、フェンダーのジャズベース、タカミネのアコギがあった。部屋の中央にはさっき言ったようにコタツがあった。角部屋だったのでCDの棚と反対側の壁には窓があって、そこからは雑木林が見えた。夏にうっかり窓をあけると虫がよく入ってきた。窓の前には学習机があって、いつもその机の椅子に座って柳はギターを弾いて、曲をかいていた。机の下にはフェンダーの十五ワットの小さなアンプが置いてあって、それにいつもギターをつないでいた。簡単な歪みを作れたり、リヴァーブがかけれる程度のシンプルなつくりのやつだ。柳がエフェクターを取り出して部屋で弾くことはほとんどなかった。家で弾くときはギターとアンプで完結していた。
 机の横にはギタースタンドがあって、そこにはその時々に柳が気に入って弾いていたギターが置かれていた。柳はあまり機材にはこだわらないタイプだった。アンプがどうとかピックアップがどうとか、柳の口から聴いたことはなかった。が、それはなんでもいいというわけではなかった。彼にとっては見た目がシンプルで格好よく、自分の求める音を出してくれるものを重要視していただけだ。多少弾きづらいギターでも音がよければ文句はなかった。
 机のもう一方の横側には布団が畳まれて置いてあり、訪問者たちはよくソファー代わりにそれに寄りかかっていた。布団の横はクローゼットで、あけるためには一度布団をどかさなければならない。やはりクローゼットの中には服以外に大型の書籍やレコードがしまわれていた。柳の服装はいたってシンプルなもので、思い出そうとしても何を着ていたのか思い出せないほどだ。普通のジーンズやスラックスに、上は夏はTシャツかポロシャツで、秋冬はワイシャツの上にカーディガンを羽織っていた。おしゃれというわけではないが、特にださいというわけでもない。それに柳は背が高いので僕と違ってなんでもある程度似合ってしまうのだ。また、柳はライダースジャケットのようなこだわりのアイテムなどを着ることもとくになかった。ただ冬から春先にかけてはモッズコートをきていてよく似合っていた。
 ベランダに出るとそこに見えるのは一面の墓地だった。僕達はその墓地が好きだった。遅くまで話し込んだ後、朝靄の中ベランダから墓地を眺めるのが好きだった。そんな時誰も一言も喋らなかったが、多分おんなじことを考えていたと思う。
 夜にはよくその墓地を散歩したものだった。※⑦キーツの墓もイェーツの墓も、ワイルドの墓も無かったけれども、僕らのインスピレーションの源の1つだったと思う。
 本棚を見るとその人の、人となりがわかるというがCDにもおんなじことが言えるとおもう。いまだったらスマホにどんな音楽が入っているかになるだろうか。僕は今でも人の家に上がった時にはCDが置いてある棚を探してしまう。近年ではあまり見られなくなってしまったけれども。
 人となりが分かると言ったが、柳のCDコレクションから何がわかるだろう。柳のCDコレクションは膨大で、ジャンルの偏りも少なく、大抵の歴史的名盤はそこにあった。例えば君がスカを聴きたいといえば、柳はスペシャルズのファーストアルバムをすぐに取り出してきてくれたし、君がラップを聴いてみたいといえばNotorious BIGの 『Ready to die』 を出して来てくれるし、ビートルズを聴き始めたいといえば、彼は少し迷ってから赤盤を取り出して貸してくれただろう。
 いや、邦楽がいいんだけどといえば、それがスカなら東京スカパラダイスオーケストラの『スカパラ登場』になり、ラップならブッダブランドの『病める無限のブッダの世界』になるということだ。ビートルズっぽい日本のバンドってない? と聞いてみたら多分ユニコーンを出してくれていただろう。※⑧かと言って幅広いジャンルの表層だけをかすめ取った聴き方を彼がしていたわけではなく、CDの棚には確実に彼自身の好みが反映されていたし、何かを貸して欲しいとお願いしたときには、柳がそれをどのぐらい気に入っているのか、短いコメントやリアクションで示してくれていた。
 話がずれてしまったが、柳の好みというのは決してすぐに把握できるタイプのものではなかった。人間性の深みというものを感じさせる棚だった。僕たちはよく、気が付くとCDの棚を見ながらああでもないこうでもないと、音楽に関する話を始めてしまっていたものだった。
 結局その日に解散したのは夜の二時だった。二人でレコードやCDを聴いて、ギターでセッションをし、近所の「矢野屋」でラーメンをたべて(雪はもうやんでいた)、またCDを聴きながら音楽について話し合って、それから互いの連絡先を交換して別れた。
 音楽を愛する人との出会いがなくなってから久しい。あの日の偶然の出会いは運命的なものだと思いたくなるのも仕方がないことではないだろうか?

第二話に続く

※①オーケー。敗けを認めよう。結局調べてしまったのだ。ウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer, 1836-1910)は19世紀に活躍したアメリカの水彩画家。柳が好きだったのもよくわかる。絵のことは詳しくないが、なんだろう、彼の風景の切り取りかたには何かしらストーリーを感じさせるものがあって、柳の曲の作風に似ていた。

ウィリアム・シェイクスピアは『ロミオとジュリエット』『マクベス』などで有名なイギリスの劇作家。詩人としても名高い。念のため。

※②「MR.BIGだってNirvanaだって2バンドあるからな」

有名なのはともに90年代前半メインで活躍した方だが、実は古い方のMr.Bigは聴いたことはない。タワーレコードのインデックスで知った。

古いNirvanaはそれなりに知名度も人気もあり、ディスクガイドでたまに見かける存在だ。

※③ビートルズやローリングストーンズに説明が必要だろうか???きちんと話そうとするとそれだけで何十ページも埋まってしまう。ここでは僕のマイフェイバリットソングをそれぞれ三曲上げていこう。さらりと言ったが、絞り込みがが非常に困難であることは両バンドのファンならお分かりだろう。

ビートルズ「A Day in the Life」「Yes It Is」「Penny Lane」

ストーンズ「Gimme Shelter」「Waiting on a friend」「Beast of burden」。

※④2004年から2005年初頭にかけてここに記述されているような大雪の記録は存在しない。僕の記憶が間違っているのだろうか。柳との出会いをドラマチックにしたかった僕の思い出による捏造なのだろうか。いや、確かにあの日は大雪だったのだ。そう断言したい。そうでなければ柳が僕に話しかける理由がない。

※⑤悲劇的な死を迎えたゲイだったが、過度にかれに対してセンチメンタルになることはなく、当時は知らなかったが、『ワッツ・ゴーインオン』以降も似たような社会問題を取り上げたアルバムを作り続けたのかというとそうではなく、テーマはバラエティ豊かだ。別れた妻への慰謝料がわりに作ったアルバム『Here My Dear』(邦題:離婚伝説)など、調べるほどいろんな話題にことかかさない人物。

※⑥柳を擁護しておくと当時はスマホなんてものは普及しておらず、手元に地図がなければ、迷ったら誰かに聞くか標識を見るしかない。それに東京には意外と複雑な、地形のところが沢山あって(山手線がどんなにアップダウンを繰り返しているか鉄道マニアに力説された経験はないだろうか)、僕らの住んでいた町も入り組んだ路地や丘や谷の多い複雑な地形の上に成り立っていた。最初は僕も当てずっぽうで歩いて迷子になった。

※⑦ピンと来なかった人はThe Smithsの「セメタリー・ゲイツ」という曲を聴いて欲しい。

※⑧ビートルズに対応する日本のバンドと聞いてユニコーンを推すことがいくつのもの反論や議論を巻き起こすことは百も承知だ。でもこっちもそれなりに本気だ。他にどんな選択肢があるだろう。メンバー全員が曲を作れる。複数の人間がヴォーカルを取る。そして何よりユーモアのセンスがある。だらだら活動せず、潔く解散する。これらの条件を満たす日本のバンドが他にあるだろうか? まぁYMOもそうなんだけど、ユニコーンよりバンドっぽさが薄いきがしてしまって、ちょっと違和感がある。しかし、僕は正直に告白するとユニコーン再結成は少し残念だった。あのまま更新されないユニコーンの方が良かった。柳のように。

第二話に続く

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