リバーポートソング 第二部 第三話 ガンガン鳴っているはずの音楽がふっと聴こえなくなる感覚があった。彼女の目は心なしか少しうるんでいるようにも見えた。

【第二部 第二話はここから】

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 下北沢での中古盤あさりは大した収穫がなかった。前回もそうで、東京中のサブカル好きの若者が集る街だから、良いものが入ってもすぐに売れてしまうのかもしれない。渋谷についたころにはもうへとへとになっていて、レコファンとディスク・ユニオンに行くという当初の目的は諦めて、マックで時間を夕飯代わりのポテトとハンバーガーをコーラで流し込んで、買ったCDを聴きながら持ってきていたヘミングウェイの『武器よさらば』を読んで時間をつぶした。中途半端な時間だったから高校生の男女グループが騒いでたのと何人か一人できてる人がいるだけで店内は珍しく空いていて、そんな中、店員がぶつくさ言いながら、明るすぎる安っぽい照明に照らされてゴミ袋をとりかえていた。時間になったから待ち合わせ場所に向かう。高良君には申し訳ないが、そのころには僕はもう帰りたくなっていた。僕は他人と関わりあうことにまた消極的になっていた。柳とは奇跡的に気があっていたが、思えば僕は元来それほど社交的な性格ではなかった。それが、高岸や、石田さん、石崎さんというコミュニケーションのお化けみたいな人たちと一緒に居たおかげで、社交性にブーストがかかっていただけだった。今になってみると久々に石崎さんにあうのも、考えてみたらたった二度しかあっていない錦をさそったのも、どうかしていたとしか思えなかった。待ち合わせは渋谷クロスタワーのテラスだった。そこには尾崎豊の記念碑がある。会場がその近くだったからという事で石崎さんが提案してくれたのだった。僕としても話には聞いていたその記念碑を見てみたかった。記念碑のまえでは十五歳ぐらいのショートカットの女の子がアコースティックギターで弾き語りをしていた。それは誰か他の聴衆に向けた演奏ではなく、尾崎豊に向けて語りかけるように歌う極めて個人的なものだった。やっていたのは「ダンスホール」という曲で、「15の夜」や「I Love You」じゃなくて良かったと思った。「ダンスホール」の歌詞は演歌みたいな場末感が漂うものがあるのだが(というか尾崎豊の曲自体元来四畳半フォークみたいな泥臭さや生活の臭いがするものなのだが)、いかにも80sライクな洗練されたプロダクションやつるっとしたアートワークのおかげでそういう側面がかなり漂白されている。そういう「商品」としてのとっつきやすさの中から尾崎豊の情熱や泥臭さみたいなものが漏れ伝わって来るのが実は彼の作品の良さだと思っていて、「15の夜」や「I Love You」、「卒業」などの代表曲とされている有名な曲はそういったプロダクションの恩恵が薄く、くどすぎる感じがして苦手だった。「ダンスホール」にもそういうきらいはあるが、圧倒的にメロディーが良かったし、過剰にドリーミーなアレンジも好きだった。その女の子の弾き語りは原曲に比べるとややあっさりとした歌い方だったが、それがかえってよかった。僕は彼女に気づかれないようにその演奏に聴き入っていた。外で弾き語りするにはまだまだ寒い季節だった。
「なにみてんの」石崎さんが僕の肩に後ろから不意にもたれかかりながら言った。僕は自分の顔が自然とほころんでいくのを必死で隠しながら石崎さんがのしかかってくるをふりほどき、彼女の演奏を邪魔したくなかったからそこからちょっと離れて久しぶりの再会を喜んだ。会う前は不安が付きまとっていたけれど、実際にあってみるとそんな必要はなくて、石崎さんはいつもの石崎さんだった。少し後ろから錦も来ていた。ここに来る途中で二人は既にであっていたらしかった。例の尾崎豊を歌う彼女には気づかれない様にしばらく三人でその演奏を聴き、演奏が終わると皆で小さく拍手をしてから会場に向かった。
「尾崎豊は『シェリー』が最高なんだよ」
「僕は『ドーナッツ・ショップ』ですね。詩の朗読みたいなのが曲の最後の方に入ってて、ま、クサいといえばクサいんすけど、グッとくるんですよね」三人とも意外なことに尾崎豊が好きで、特に錦は初期三部作よりも後のアルバムも聴きこんでいる様だった。
「私は『米軍キャンプ』が好きです。この間の合宿の車で聴いたThe Blue Nileっぽさもあってよくないですか」
「あ、言われてみたらそうかも」
「僕はどんな曲か思い出せないから、帰ったらまた聴いてみます」
 実はクラブにいくのはこれが初めてだった。後に社会人になってからライブハウスから遠のいた足をクラブに向け、会社での疲れも忘れて踊りまくる様になるとはこの時は想像もできなかった。もっとも、今の会社に転職してからは一度も行っていない。狭い階段を降りて会場に出てみれば、会場自体はあまりライブハウスと変わりが無いように見えた。そのハコの特徴なのかもしれない。着いたらすでにゆるゆると音楽がかかっていてもう始まっている様な雰囲気だった。程よい暗さのなか、暖色系のドットの光の魚群がひしめく中に僕たちは突入していった。いまから思い返してみれば、なんてことはない、終電前に終わるサークル主催の学生イベントだったけれど、当時は自分たちでこういうイベントをオーガナイズしていることも驚きだった。よくよく考えてみたらそれは自分たちがバンドでやっていることとそんなに変わらないはずだったけれども。僕はまず高良君を探して、二人を連れて挨拶をしにいった。高良君に会うのも久しぶりだったが、相変わらずの彼らしい快活さだった。音楽が爆音で流れていたから僕らは大げさなジェスチャーや耳打ちやハグで再会の喜びを伝え合った。「すとれいしーぷす」のライブで会っていたので、高良君は錦とザッキ―さんが来てくれて、また会えたことを喜んでいた。イベント自体は高良君が所属するサークルのメンバーが交代でDJをして、曲を流すというものだった。高良君が事前にいっていた通り、Hip Hopやテクノ、ハウスなど、クラブと親和性が高いものだけじゃなくて、ロックも、ダンスミュージックの影響が色濃いものは流れていた。そんなわけで、僕たちが高良君と談笑している間にも音楽は流れ続けていた。
 不意に華奢な細い手が僕の肩をうしろからつかんだ。振り向くとそこには成戸がいて、口を結んで、いままで見たことのないような真剣な顔をしてまっすぐこっちをみていた。ガンガン鳴っているはずの音楽がふっと聴こえなくなる感覚があった。彼女の目は心なしか少しうるんでいるようにも見えた。そして、そのうしろにはどこかで見たことあるが誰だったかは思い出せない背の高い男が怪訝な目でこちらをみていた。成戸は「ついてきて」というように頭を斜め後ろにそらした。振り向いて、その背の高い男に、ちょっと背伸びして耳打ちすると、そのまま出口に向かって彼女は歩いていった。僕は後ろを追いかけるしかなかった。その背の高い男と少し目があった。
 上着をクラブのロッカーにあずけていたから、外の空気は一層肌寒くて、僕たちはすこし震えながら渋谷の街の外れを話しながら歩いた。他愛のない話だった。僕が彼女を避けていたこと、メールが来てもおざなりな返事しかしなかったこと、何も彼女は責めなかった。それが僕には結構堪えた。何もなかったかのように僕たちは話した。歩いた。笑った。結局三十分ぐらい外にいた気がする。クラブの近くになると寒さに耐えられなくなった僕らはほぼ駆け足になって地下へと駆け込んだ。その後も僕たちはいい友達でい続けた。時々喧嘩することもあった。けれどこの時ほど二人で過ごした時間で尊いものはなかったと思う。彼女にそれをいうと十中八九怒られるだろうけど。過去を美化するのも僕の良くない癖なのかもしれない。しかし、過去を美化しない奴は回想なんかしない。
 クラブに戻ると成戸は例の背の高い男の元に駆け寄っていった。そして彼をこっちまで引っ張ってくると彼に耳打ちして僕を紹介した。成戸から僕には彼に関する説明はなかったが、彼が近づいてきてフッとタバコの香りがして思い出した、伊豆の合宿先で、僕らよりも先に来ていた三ピースバンドのギターの男だった。彼の名前をまったく思い出せないのだが、浅井健一っぽい雰囲気があったから勝手に浅井とよんでいる。成戸を呼んだのは高良君だった。僕が参加していた、「すとれいしーぷす」のライブで、僕らの知人が一堂に会した時に仲良くなって連絡先を交換したそうだ。あとで高良君から聞いた。成戸が僕に声をかけたタイミングではまだ彼女は高良君に出会えてなかったらしく、僕に浅井を紹介したあとで、二人は高良君のもとに近寄っていった。
 僕はずっと壁にもたれかかって、飲めないビールをすすりながら、みんなが踊るのを見ていた。意外なことに僕の知り合いの中で一番踊っていたのは錦だった。とても楽しそうで、自然な踊りでとっても良かった。その次によく踊っていたのは成戸だった。彼女は時たま目をつむって両腕をそっと折り曲げ、あたまの高さまで両手をあげ、踊っていた。それは走馬灯の中に入れても後悔しないぐらい美しい光景だった。彼女と一緒にいた浅井が僕の隣にきて、同じく壁に背を持たれかけた。彼がやるとそれはずいぶん様になった。「彼女いい子だよな」僕のほうを見ず殆ど叫ぶように彼はいった。「そうだな」僕も叫んで返した。「本当は君を殴ったほうがいいのかもしれない、でもやめとく」彼はそう耳打ちして笑った。いい笑顔だった。僕はただ頷いた。ありがたいことに高岸も石田さんも来ず、イベントは十時半というきわめて健康的な時間に終わった。久しぶりに沢山の人にあって沢山話をして、なんだか妙な心地だった。自分の振舞いでいくつかミスをしたような気がしていて、無駄に落ち込んでいた。そういうくだらないことは考えない様になったと思っていたけど、そうではなかった。今から思い返してみればどうでもいいことに思えるのだが、結局自分の直前の行動を恥じるなんてことをやめれたのは、人生がどうでも良くなった大学卒業の後からだった。人とうまくやりたい、将来に希望を持ちたいということの裏返しだったのかもしれない。とにかく電車の中で後悔に押しつぶされるのが嫌だったから、様々な感情に整理をつけるため(そしてだれかと電車で一緒になるのがいやだったため)に、エントランスで皆に別れを告げて、明治通りを北上して渋谷から新宿まで歩くことにした。新宿からは電車で、終電ぎりぎりだったけどもみくちゃにされながら何とか家についた。そのまま倒れこんで買ってきたCDをだらだらと聴きながら寝てしまいたいぐらい疲れているはずだったが、そうせずになぜかギターを手にとって机に向かった。そしてそのまま一気に書き上げてしまったのが「Song Cycle」という曲だった。タイトルはアメリカの作曲家ヴァン・ダイク・パークスが1968年に発表したアルバムから拝借した。特に関連性はない。本当に何となくだった。

※①「Song Cycle」

12時にレコードの
針を落とそう
キャンドルに灯を
そっと灯そう

Dancing to the night
Dance through the night

真夜中過ぎたなら
音に気をつけよう
寂しがり屋の誰かが
くるといけないから

Dancing to the night
Dance through the night

ずっと夢をみていた
ずっと夢にみていた
ずっと夢をみていた
寂しがり屋だから

12時にレコードの
針を落とそう
キャンドルに灯を
そっと灯そう

寂しがり屋だから
寂しがり屋だから
寂しがり屋だから

 四月。我々は大学二年生になった。いまは見直しが行われて少し遅くなったが、それなりに名の通った企業に入りたいとおもったら、三年の夏休みを過ぎた頃から就職活動を本格的に始めなければならなかった。そしてその流れに乗り遅れてしまったら新卒という大事なキップを失う事になるという恐怖が皆の中にあった※②。我々の大学はバンカラ気質というか、我が道を行くというか、そういうものを気にしない風土もない事も無かったが、経済界におけるコネクションや存在感の大きさもあって、積極的に就職活動で今後の人生を有利に進めていこうというイデオロギーの働きもかなり大きく、学生のモチベーションは結構二分していた気がする。そして僕はそのどちらとも言えないポジションでウロウロとしていた。つまり何か他の人と違う道を行くには自分に自信がなく、「当たり前」の事を当たり前にこなすほど飼い慣らされちゃいないという矜持みたいな物があった。実際はその「当たり前」の事すら出来ないだけかもしれないにもかかわらず。そしてそれは就職氷河期が明ける直前の事だった。先輩達は就職にかなり苦労したという話を何度も後輩に植え付けた。準備に早すぎるという事はないと皆口を揃えて言った。しかし結局我々を待っていたのは団塊の世代の退職による空前の売り手市場だったのだが、情報収集をまともにしていなかった僕はそんな基本的な情報すら知らず、状況は悪いと思い込んでいた。いずれにせよ、思う存分に遊べるのはこれが最後の年、というムードが我々二年性に漂っていたし、そんな事実認識が学生たちのタガを外しにかかっていた。僕は相変わらず柳の家に週一、二度ぐらいで転がり込んで、相変わらず音楽の話をしていた。ちょっとしたセッションをしたり、曲を分析して発見した事を教え合ったり、楽器を弾くのに憚られる時間になると、外に出て柳の家の目の前の墓場や近所を散歩したりした。このころ散歩はお金のない我々にとって格好の娯楽になっていて、夜は近所をぶらつくにとどまっていたが、日中は普段なら電車でしか行かない所まで徒歩でいくとか、バスしか通ってない所まで歩いていくとか、後先考えずにいろんな方角へと足を向け、二時間かけて赤羽まで行ったり、バスでも一時間かかる吉祥寺まで三時間ぐらいかけて出かけてたりしていた。
 四月も下旬に差し掛かった頃、錦から連絡があった。またオリジナルの曲を一緒にやってくれないかという誘いだった。クラブに行った日に錦からメソポタミア文明ズは実質活動停止状態だと聞いた。ドラムの高山さんは就職活動が終盤に近づいていたし※③、中心メンバーで大学何年生か不明な藤田さんは海外を放浪しているという噂だった。深川さんはその確かな腕と大学生のギタリストには珍しいことだが、オールジャンルに対応できるし、自分の見せ場なども主張しないので、メソポタミア文明ズの活動中から目をつけていた数々のバンドからサポートギタリストとして引っ張りだこになっていた。キーボーディストは何気に軽音楽部では希少で、腕のたつ錦も、そのボーカリスト、ソングライターとしての才能を隠しているにもかかわらず、様々なバンドに参加、協力を打診されていたが、結局はサポート的なポジションを求められることが多く、学ぶことも多いのだか、そろそろ自分の表現を突き詰めたいということで、僕を誘ってくれたのだった。そんな人脈があるんだったら、そっちで優秀なメンバーを集めてバンドを結成すれば良いし、別にギターもベースも特に上手いわけでもないし、前回の集りもそれほどパッとした所を見せられなかったにもかかわらず、僕をまた誘ってくれたのは本当に不可解だった。とはいえ、錦はドラムに小木戸えりをまた誘っていたものの、彼女もかなり力を入れている自分のバンドがあるらしく、なかなか都合がつかず、結局は話だけで何週間かが過ぎていた。
 桜も完全に散ってしまってなかなか質素になってしまったいつもの散歩道を柳と歩いているときだった。僕らは二人とも洗濯機がおけない場所に住んでいて、コインランドリーで洗濯をしていたのだが、この頃には二人で示し合せて、五日間ぐらいたまった洗濯ものをもって、近所のコインランドリー「はなたば」で洗濯ものを回しながらだらだらするというのもルーティンになっており、その帰り道でのことだったと思う。僕らは濡れた洗濯ものが沢山入ったカゴを抱えてふらふらあるいていた。そこで、錦という凄い曲を作って凄い歌を歌うキーボーディストにバンドを誘われているが、ドラムがなかなか捕まらずになかなか活動出来ていないという話をした。
「ドラムやりたい」柳が言った。「ドラム叩けるの?」柳がドラムを叩いてるところも見たことなかったから純粋に疑問だった。
「それなりに。けど暫く叩いてないから練習はいる。今日スタジオ入って練習する」
 まだ参加の了承をとってないのに気が早い。そういえば初めて出会った時、柳はスタジオにやってこないバンドメンバーを待つ間ずっとドラムを叩いていた、みたいなことを言っていた。もしかしたらそれ以来ドラムを叩いてないのかもしれない。という事でその日は各々洗濯物を自分の家で干した後、二人で一番近い音楽スタジオに入った。一応柳がどのくらい叩けるのか、どんなプレイスタイルなのか、錦に紹介する前に把握しておくのが礼儀だと思ったのと、なによりも柳のドラムプレイが早く聴きたかったからだった。という事で柳はドラムスティックを、僕はギターを持って最寄りのスタジオに入った。そういえば入学してからずっとバンド練習はメンバーの集りやすい都心や部室でおこなっていたから、近所のスタジオに入るのは今回が初めてだった。それは「Voice」という個人経営のスタジオで、最寄りの駅からはすこし離れていたが、家からは徒歩五分でいう割と便利な場所にあった。今後このスタジオで何度もW3の練習をすることになるとはこの時は思ってもみなかった。「Voice」は三階建ての小さなビルで、入り口は半地下になっていて、四段ぐらいの階段を降りて入ることになる。それはデザインというよりはここら辺の複雑な地形のせいで、少し隆起している土地にスタジオが面しているからだった。台車で押して運ぶような大きな機材を運ぶときには、オーナーが何処からかスロープを持ってきて、階段にかけてくれたりしていた。内装は外側の印象と全然違って焦茶色の木で統一されており、壁には古いレコードやCDが飾ってあった。ソファーとテーブルが二セット程置いてあり、最大で八人ぐらいが座れた。他には音楽雑誌が積まれたマガジンラックと何故か古い漫画しか置いてない本棚があった。オーナーは五十代ぐらいの長髪のおじさんでスタジオのものなのか、自分の車や家のなのか、いつも鍵束をチャラチャラとさせていた。もう1人我々よりも少し年上の黒縁メガネで髪をいつもきっちりとセットしている助手みたいな青年がおり(いま振り返ってみるとPUNPEEに似ている)、基本的にこの二人のどちらかがスタジオにいる。この日がどっちだったのかは忘れた。
 スタジオに入り、僕がギターやアンプ、マイクやらをセッティングしている間、柳は感を取り戻すように、徐々に複雑なフレーズを叩いていっていた。この時点で柳がなかなか叩けることがわかった。
 柳は凄くはないが、いいドラマーだった。味のある独特のグルーヴ感のあるエイトビートを叩いた。あまりテクニカルなことは出来ないが、フレーズの組み立てが素晴らしく、歌心のあるドラムを叩くことができ、一緒にやっていてとても気持ちのいいドラムだった。パンク以降のロックに影響を受けたドラマーではなく、60年代のジャズドラマーに影響を受けたロックドラマーの様なドラムだった。僕は耳コピした曲を書きとめているノートから適当にドラムが簡単そうで、やってて楽しそうな曲を選んで演奏し、柳が適当にあわせて二時間をちゃっかり楽しくすごした。練習が終わると僕は早速錦に連絡した。錦からは小木戸が全然捕まらないこともあって、案外すんなりとOKが出て、一度お試しで集まろうという事になった。

第四話に続く

※①今聴くとストーンローゼズのパクリみたいなシンプルな3コードのジャングリーなギターポップダンスミュージックだった。

※②実際には社会はより寛容だった。一留や一浪なら実際にはそれなりの理由を提示し、ギャップをカバーする何かがあれば特に問題とはされなかった。そしてきちんと休日が取れさえすれば、楽しく生きていくのに十分な給料が貰えさえすれば、社会人もそう悪くもない。きちんと休日が取れ、楽しく生きていくのに十分な給料が貰えさえすればであるが。

※③当時はどんどん就職活動が前へ前へとずれ込んでいて、大体三年生の二月ごろからぼちぼち内定が出始め、三月、四月には多くの学生の就職先はほぼ決まっているという状況だった。

第四話に続く

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