リバーポートソング 第三部第八話 別れたあとに最初にみた動き回る彼女の生き生きとした姿、歌っているときにたまに見せる恍惚とした表情、それは僕には生々しすぎた。

【第三部 第七話はここから】

【あらすじと今までのお話一覧】

 W3がそんな足踏みをしている間に錦が藤田さんとやっていた絶対安全毛布は都内のライブハウスで話題になりはじめ、StraySheepsはインディーレーベルからリリースされた最初のフルアルバムがタワーレコード新宿店のインディーコーナーでポップつきで紹介されるまでになっていた。絶対安全毛布の話題は同じ大学の軽音で錦達とは全く面識がないやつから聞いた。StraySheepsのポップに関しては何の事前情報もないまま偶然見つけ、既に絶対安全毛布の口コミを聞いた後だったから錦や高岸と自分との差に改めてショックを受け、CDも買わずにふらふらと店を後にした。いつもだったら新宿西口の紀伊國屋書店で本を物色し、地下でカレーを食べ、隣のビルに入っているディスクユニオンに行き、余力があったら向かいの三越にあるジュンク堂に行くのがお決まりのコースだったが、この日は何も買わずに電車にのり、人波に揉まれながら、もういっその事就職活動を始めようかと思ったが、当時は今よりもずっと前倒しで就職活動のシーズンが始まっていたので三年生の三月の時点で何もしてないのは既に手遅れで(実際にはその時始めていてばなんとかなったとは思うのだが)、我々学生が思いつく様な主だった大企業は既にエントリーシートを締め切っているか、締切まであと何日かという状態で、そんな事を知ったのも家に帰って勇気を出してとりあえず知ってる企業の採用ページを初めて適当に見てからで、慌ててリクナビやマイナビに登録しようとするもその時点で考えたことすらない志望の職種や業界や自己アピールの記入を求められ、登録できただけでも褒めて欲しいぐらいだったが、その日馬力を出してしまったせいか、そこで力付き、バンドを続けるのか就職活動をきちんと始めるのか(両立という柔軟な考えはなかった)どっちにも転べずどうするかも分からず決められずにいつのまにか僕は四年生になった。

そんな四月に例の絶対安全毛布の口コミを聞かせてくれた友達が彼らのライブに誘ってくれた。当然錦には別れてから一度も会ってないし、絶対安全毛布のライブもそれからは見ていない。初期の彼らはまだバンドとしてギクシャクしていて、錦の良さを体現できていなかったから、その時の印象がそのままなのか、それとも更新されているのか、常日頃確認したいとは思っていた。彼は僕がその絶対安全毛布のボーカルとつきあっていたことなんて知らないし、言って遠慮されるのも嫌だったから何も言わずについていき、後ろの方で見ることにした。
会場となったライブハウスは渋谷の老舗の箱で、数多くのメジャーバンドを輩出したことでも有名で、彼らの出番はトリではなく一番目だったが、結成から一年そこそこでここで最初の出番でやれている時点ですごかった。彼らの場合は一からバンドを立ち上げたわけではなく、前身となるメソポタミア文明ズがあったこともあり、その時からのファンなどももしかしたらいたのかもしれない。会場は満員で混み合っていて錦とは顔を合わせずに済むかもしれないが、逆に人の波の中でバッタリと遭遇してしまう危険性もあってヒヤヒヤするも、トップバッターだから今頃ステージ裏で準備をしているはずでその心配は無いと思い直したり忙しなく開演を待った。そんな僕の様子をライブに誘ってくれた友人(残念ながら名前はもう覚えてない、本当に思い出せない)はよほど絶対安全毛布に期待しているのかと誤解してくれていたようで「楽しみだね」と連呼して期待で無邪気に興奮していて、彼には悪いが僕はまたそれで苛立った。
客電が暗くなり、メンバーがゾロゾロ出てくる時点で歓声があがる。暗くてよく見えないがベースの藤田さん以外は知らないメンバーっぽかった。最後に遅れて錦が出てくる。髪が少し伸びてセミロングになっていてメガネもしていなかった。一部の親密な人間にしか見せていなかった彼女は全世界に公開されていた。
錦の楽曲はポップでありながらダンサブルな、ニュー・ジャック・スウィング以降のR&Bみたいな楽曲だったし、メソポタミア文明ズはファンクバンドだったし、その流れで絶対安全毛布の最初期もファンクバンドだったから、アコースティックギターの柔らかなリフが最初に流れてきたのは意外だったが、そのリフに乗せて錦がマイクを持って踊りながらご機嫌に歌い始め、徐々に楽器が加わってきて盛り上がり、結局はストーンズの「無常の世界」やPrimal Screamの「movin’ on up」みたいなゴスペル調のポップでアッパーでダンサブルなナンバーという事が分かった。という分析は後で冷静になって振り返った時に気づいた事でその時はもう興奮の渦に巻き込まれてまわりの観客と一緒に体を揺らしていた。途中から錦はステージ端に移動してそこにあったキーボードを弾いてサザンロックやカントリーみたいな軽快でコロコロと鍵盤上を指が転げ回るようなピアノソロを弾き、ソロパートが終わるとそのままそこで歌った。曲は最高潮に盛り上がったまんまで終わって、その瞬間に観客の叫び声がこだました。間髪入れずにクリーンなギターサウンドがかき鳴らされ次の曲が始まる。この曲の事は今でもビビッドに思い出せる。さっきのとは違って若干の憂いを帯びたようなメロディが特徴、だが同時に踊れる曲で、マイクを持って中央に出てきてはリズムに合わせて自然に体を揺らしながら彼女は歌った。去っていった楽しい時代について懐かしむ様な曲で、僕の中ではそれは彼女との思い出で、それらがダイジェストで駆け巡った。何しろその当人が目の前にいるのだ。彼女の凄みがこんなポップな方面に振り切られて提示されるとは思ってもみず、何度も言うけど当時のライブハウスはナンバーガールや銀杏BOYZといった激しいサウンドやポストロックやポストパンク的な実験的かつダンサブルなバンドで二極化していた(勿論箱によると思うし、あくまで僕の観測内の話だが)から、ここまでポップなのも珍しかった。UKパンクやニューウェーブやグラムロックがメインの引用先だったStraySheepsですらポップ過ぎると感じたぐらいのライブシーンだった。絶対安全毛布にこの路線でこれほど凄いものを見せつけられたらこちらはまた別の路線で対抗しなければならないと僕は思った。所がまた次はミドルテンポで酩酊感のある粘っこいバックに、自由で奔放な、即興をも思わせるような歌唱、時々シャウトもまじる、が乗っかったサイケデリックかつエモーショナルな楽曲で、彼女の歌の表現力を否応なしに見せつけされ、今までのポップな路線とは違った深淵を覗かせる様な凄みがそこにはあった。演奏が終わると一瞬観客が静まり返ってその後に歓声が起きた。この様な小規模の会場では滅多に見られない反応だ。再びポップな楽曲がはじまり、最後はメソポタミア文明ズの名残を思わせるゴリゴリのファンクナンバーで客の盛り上がりは最高潮に達して終わった。
統一感が無いという批判もできたかもしれないが、それは殆ど言い掛かりに近く、思わず誰かに話したくなるかけ値なしで素晴らしいライブといえた。

こんな凄いライブを見せつけられてどうしろと? 彼らがいるなら他のバンドなんて必要ないと思わせるだけのものがそこにはあった。全ての演奏が終わり客電が再びついたあと、僕は友人に「具合が悪い」といって彼の返事も聞かない早さで会場をとび出た。完全に絶対安全毛布だけが目当ての人も少なからずいて、会場からは何人かがぞろぞろと出てきていた。僕と彼らの差は歴然だった。何もかもが嫌になった。
いつものパターンだ。僕は電車に乗って人波に揉まれながら帰るのが嫌になり歩いて帰ることにした。とりあえず北上だ。渋谷から新宿までを目指す。厄介な事に、別れたあとに最初にみたくるくると動き回る彼女の生き生きとした姿、歌っているときにたまに見せる恍惚とした表情——それは僕にはとても生々しすぎた。あられもない姿を思い起こさせた——は未練がましい気持ちと後悔、二十代前半らしい旺盛な欲望を噴出させ、バンドに対する激しい嫉妬と己の惨めさと相まって、押し合う様にして心の中で禍々しく渦巻き、暴れ回っていた。そんな気持ちも夜の街をがむしゃらに歩き、喧騒や混雑がまばらになり、薄汚れてはいるがそれでも心地は良い都会の夜の春の風に吹きさらされていくうちに、だんだんと浄化されていき、いいライブを見た後のピュアな高揚感が残った。こんな都会のど真ん中でも歩き続けることで不思議と周りに誰もいなくなって本当に一人になれる奇跡的瞬間がふと訪れる。それはこの時もそうで、その瞬間やるべきことが僕にはハッキリと分かり立ち止まった僕は意味もなくぐるりと周りを見渡した。暗くはなかった。お店と街灯の灯りがあった。しかし、そこにはしんとした静けさがあって人の姿も気配もなく、一人だった。僕は藤田さんが錦をこのような形で世に送り出しているように柳を世に送り出さねばならない。彼の才能をこの東京で、日本で、そして世界で響かせなければならない。嗤うかもしれないがそれは啓示みたいなものだった。そのためにはこのままではダメだ。無目的でなすがままにダラダラやっていては。勿論それで機能するバンドもあり、そうでなくては上手くいかないバンドもある。W3はそういうバンドで、柳はそういう音楽家だとおもっていた。自由奔放、なすがままに活動する事で輝くアーティスト。だが現状を見る限りそれは違う。プロデュース、設計図が必要だ。そう思うと居ても立ってもいられなくなって、歩いてかえるのはもうやめて最寄りの地下鉄に飛び込んですぐに家に帰り、机の上に駅前のスーパーの文具コーナーでつい先ほど買ったまっさらなノートを広げた。その時点では可能性は無限大だった。ワクワクしていた。だが、想像力が自由で無軌道な飛翔を続けているのを地上からなんとかして捕まえ、いつでもじっくりと眺められるようにするのは難しく、感じたワクワクの鱗片すら紙の上に落とし込むことすら出来ずに机の上のまっさらなノートの前で僕は考え込んでしまった。前に進むのに必要なのは具体性だった。でも何にも出てこない。だが、このまま引き下がることは出来ない。疲れていて寝てしまいたかったが起きて何か糸口を見つけたい。そうしないと一生ずっと後悔する。いまかろうじて指先に残っている確信めいたものの感触は、寝て起きたらきっと消えている。それは、夜、本当に寝る直前で思いついた曲のアイデア、アレンジ、歌詞の断片、イメージ、を紙や録音物として残すことなく睡魔に負けてしまった次の日の朝、それらは確かにあったという微かな記憶だけ(ひどい時はそれすらもなく二、三日後にふっと思い出す、なんの手がかりもなく)を残し、霧散してしまっている、という苦い経験からどうしても避けたかった。とりあえず何を目指したいのか、どうなりたいのかぐらいはっきりさせる必要があった。StraySheepsのコンセプトははっきりしていた。アトラクションズ時代のエルビス・コステロ、初期、中期XTC、blur、攻撃的でいてポップなバンドサウンド、バンド内で複数のシンガーとソングライター。高岸と僕が描いていた絵図。そこにRoxy Musicフリークの石田さんが加わった。彼女はボーカルも作曲も出来た。初期、中期Roxy Musicの音楽性は僕らのコンセプトに合致していた。高岸からしたらもう少しギターに刺激的なサウンドが欲しかったのかもしれない。アベフトシ、ウィルコ・ジョンソン、アンディ・ギルからの影響を隠さない、鋭いカッティングで攻撃的なサウンドをもたらしてくれるギタリスト、花田をバンドに迎え入れた(そして僕が去った)。
高岸とは違い、錦に明確なビジョンがあるかというとそうでもない。その時々にできた曲をただ披露していたし、その方向性はバラバラだった。その点は柳にも共通している。それもあって錦をビジョナリーと勘違いし、あの文化祭ライブの後接触してきて、彼女に導いてもらおうとした連中とのバンドはことごとくあのライブの素晴らしさを再現できず、幻を追い求め続け、フラストレーションを抱えたまま空中分解していった。その点、リバーポートソング、あの文化祭だけの錦と柳と僕のバンド、の場合、錦の作った曲をある程度選別し、あの三人のメンバーの構成、そしてそれぞれの特性を活かせるようにアレンジを加え、錦の楽曲を最大限活かせる様に脇を固めたのは柳と僕だった。柳は誰かに楽曲のアレンジや、曲自体の底上げをするアドバイスやアイデアなどにも長けていたが、自身の楽曲に対しては興味の対象がどんどん他に移っていくからか非常に無関心というか、錦の曲に向き合ったような熱心さはなかった。もしかしたら何か方向性のアイデアが有れば柳も自分の曲に対してもっと具体的なアイデアが出てくるのかもしれない。という事でまずは方向性だ。僕はまず自分が柳と、どんな音楽をやりたいのかを突き詰める事にした。その為には柳の音楽性や好みを改めて整理しなくてはならない。僕自身のもだ。今まで柳が作って僕に披露してくれた曲を思いつく限り一覧にしてまとめてみた。柳の作った曲も錦同様幅は結構広いが、得意とするところは割と決まっていて、Bob DylanやLou Reed、R.E.M.みたいな、シンプルなコードなんだけど、言葉の響きとメロディのさりげないポップさでぐいぐいと聴かせてしまう曲だった。ただ、彼等や、それこそジョニー・キャッシュやジェフ・バックリーの様に弾き語りで完結してしまう強度、凄みが、楽曲自体と演者である柳自身にそなわっていたため、アレンジがかえって難しい。弾き語りだけで立ち上がってくる世界が、下手なアレンジで矮小化されてしまう危険性が常にそこにあった。じゃあ、それこそBob DylanやLou Reed、R.E.M.を参考にすればよい。そこで話は終わり、結論はでたのかもしれないが、もう少し自分の好みややりたいことを掘り下げて見たくなった。それが自分のやりたい事とあまりにも違ってしまっていたら柳とやる事にこだわる事もないのかもしれない。先程の「掲示」とはまるで逆の冷静な考えが頭に浮かんだ。ということで、とりあえず柳の特性は置いといて、まずは自分が特別に好きなアルバムをCDの棚から選んでいった。この作業は楽しかった。『The Stone Roses』The Stone Roses、『The Velvet Underground & Nico』The Velvet Underground、『Ocean Rain』Echo & Bunnymen『Jordan Comeback』Prefab Sprout、『Huts』The Blue Nile、『Ziggy Stardust』David Bowie、『The Queen Is Dead』The Smiths、『The Bends』Radiohead、『Doolittle』Pixies……。自分がその当時好きだったアルバム。勿論素晴らしい作品ばかりだ。しかし今ではこの偏りが気恥ずかしく思える。時は2000年代半ば。すでにラップは90年代中盤の第一次黄金時代を経験していたし、R&BもNJSを経てネオ・ソウルがでてきていた、テクノはエイフェックス・ツインやスクエアプッシャーの登場、ロックやノイズミュージックとの融合、機材の発達、で新しいフェイズに入っていた。そう、90年代に覚醒したのはロックやメタルなどのバンドミュージックだけではなかった。勿論時代を遡ればジャズもレゲエもあった。だが、それらロック以外のジャンルは僕の眼中にはなかった。勿論、それこそ、ロック以外も柳や錦、高良君などの影響で横目で少しは聴いていた。ただそれらの音楽をバンドミュージックと同列に語れるほど、熱中してはいなかった。そうだったらもっと違っていたかもしれない。今でも一人で何かを続けていたかもしれないし、バンドに拘らずにすんだかもしれない。ただ、この時はバンドミュージック、ロックこそ僕の世界の中での中心だった。やりたいことの全てだった。
並べてみた名盤達を眺め、そこに色々と足りないものが沢山あることに気づく。特に自分が好き、優れていると思うアルバムをリストアップしただけでは引っかかってこなかったが、アーティスト自体はめちゃくちゃ好きで影響を受けているというのも沢山あるはずだった。というわけでベストアルバムを除外して考えていたが、ベストアルバムがむしろ好きなアーティストやアルバム全体はそこまででもないが、キャリアを眺めてみるとかなり自分の好みであるようなアーティストもリストアップしてみた。そこででてきたのはYMO、Bob Dylan、ナンバー・ガール、The Clash、New Order、The Band、フリッパーズ・ギター、サニーデイ・サービス、The Byrds 、XTC、The Beatles……。これらのアーティストで、ベスト盤を持ってるものに関してはベスト盤をさっき選んだアルバムと一緒に並べてみた。こうして眺めてみると恐れていた通り、柳の音楽性と重なる所は少なかった。それこそBob Dylan、ヴェルヴェッツぐらいか。さて、この並べてみたCDから自分がバンドとしてやっていきたいのはどんな音楽なのか改めて考えてみるが、なかなかそれが分からない。何枚か聴いてみているうちに夜も更けてきた。そろそろ眠くて限界を感じて、風呂はあしたの朝にして、もう寝てしまおうかとと考えたが、ライブで汗をかいていて気持ちが悪かったので、とりあえずシャワーだけでも浴びることにした。
錦のパフォーマンスを見て興奮したのと、渋谷と新宿の間で何やら掲示めいたものを受け取ったせいで見えていなかったが、シャワーを浴びながら並べたCDを冷静に思い返してみて気づいたのは、当たり前だがそもそも、いいバンドはメンバー全員がそれぞれ重要だという事だ。偉大なバンドは一人の天才がいればそれでいいわけではない。ビートルズは極端すぎる例だが、例えばドアーズなどジム・モリソンばかりが引き合いに出されるが、他のメンバーも全員素晴らしい。サイケデリックな雰囲気のせいでファーストを聴いただけではよくわからないが、『モリソン・ホテル』などの後期の名盤を聴けばしっかりとしたアレンジもできる有能なバンドであることが分かる。ナンバー・ガール。あのメンバーで誰か一人でも欠けたらそれはナンバー・ガールと言えるのか? クラッシュ。ジョー・ストラマーだけが凄いというわけではない。ミック・ジョーンズのボーカルと彼の曲の方が実は好きだったりするし、ミックとジョーの掛け合いが本当に最高だ。ポール・シムノンのカッコいいベースと佇まい。そしてなんといってもトッパー・ヒードンというすばらしいドラマー。彼がいなかったらクラッシュ全盛期の音楽的広がりもここまでの物では無かったろう。YMO、フリッパーズギター、Queen、メンバー全員が曲を書く、とんでもないバンド達。三人の優れた作曲者がいるL’Arc〜en〜Ciel。ザ・バンド。全員が手練れのミュージシャン。三人それぞれに素晴らしいボーカルを有するバンド。TOTO。選りすぐりのスタジオ・ミュージシャン、作曲者の集まり。はっぴいえんど。その後の邦楽史の在り方を永遠に変えてしまったメンバーが集っていた奇跡的バンド。ポリス、ゆらゆら帝国、ニルヴァーナ、ELP、完璧で歪なトライアングル。きりがない。

メンバー全員が重要。それが絶対だ。少なくとも僕の好み、理想とするバンドは。最初その考えで自分も高岸や柳に並ぼうとしていたのだ。だが、錦や柳という圧倒的な「個」に対峙することですっかりその考えを失っていた。その考えで高岸は僕を切った(何度も言うが辞めたのは僕なので被害妄想なのかもしれないが)し、石田さんや花田などの強力なメンバーを集めていた。絶対安全毛布も錦と藤田さんだけがイニシアチブを握っている様には思えず、個々のメンバーの演奏もそれぞれの楽器のアレンジもしっかりしていた。誰か一人がアレンジを全部考えた可能性もあるが。そうして思い返しているうちにあれだけのメンバーをどうやって藤田さん(もしくは錦)が集めたんだろうと思った。そもそも正直、絶対安全毛布が活動を続けるとも思っていなかった。彼女は音楽活動をやめてしまうとすら思っていた。それぐらい一連の解散劇で我々が負ったダメージは大きかったはずだ。そう、だからメソポタミア文明ズがSafety Blanketsに改名し錦が中心になってバンドが再スタートを切った時、錦はまだ並行してバンドを掛け持ちしていて、それらが瓦解しかけていたから、Safety Blanketsもうっすら上手く行かないかもしれないと思っていた。所がバンドは続き、Safety Blanketsは絶対安全毛布になった。当時はゆるい雰囲気で錦の曲も殆どなく、藤田さんが作って他のメンバーが歌う曲と錦の曲と、みんなでジャムって作ったファンクナンバーが混在していた。おそらくその活動を通して彼女がバンドをやりやすい雰囲気づくりをしていたのだと思う。初期の絶対安全毛布のあの緩さ、それは意図的なものだったのか。今日みた絶対安全毛布はもっと隙のない、恐ろしく完成されたバンドだった。何か変わったのか。おそらく藤田さんは徐々に錦中心の体制に整えていったのだろう。長い目でもって。その為にメンバーも変えた。いや就職活動や卒業で自ずと変わっていったのかもしれない。それにしても藤田さんはどこからあのメンバーを連れてきたのか。思い返してみたらみんな素晴らしいプレイヤーだった。あんなメンバーを集めるのはなかなか大変なはずだ。勿論彼の人脈の広さを考えれば不思議ではない。が、なにかが引っかかった。何かが。

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